最近、モノに執着していると感じるようになってきました。
どのようにその執着を手放したらよいかを考えていたらピッタリの本に出会いました。
それが『執着の捨て方』という本です。ズバリのタイトルだったので迷わず購入しました。
感想は「読んで良かった」のひとことに尽きます。
視界が開ける感覚を味わうことができました。このように感じる本はなかなかありません。
どのように執着を捨てたらいいのか、その内容を紹介していきましょう。
執着の捨て方
「執着」には4つある
どうしても手放したくない「欲」があると「執着」が生まれます。
「もっともっと」という思いが強くなり執着が増すと、それが「悩み」や「苦しみ」になります。
本書では仏教の考え方に基づき、「執着」には次の4つがあると書いてあります。
- 欲(五欲)への執着
- 見解への執着
- 儀式・儀礼への執着
- 我論への執着
執着は「モノ」に対するものだと思っていたのですが、仏教ではこの4つの執着があると考えられています。
この順番に手放すことができると同時にだんだんと困難度も増してきます。
執着を捨てるとはモノを捨てたから終わりという単純な話ではなく、自己を見つめることでまずは執着の存在に気づかなければなりません。
究極のことをいえば、私たちは命さえも手放さなければならないのです。この事実は、いくら「いやだ」と言っても変えられません。宇宙の法則なのですから。(P.30)
欲は放っておくとどんどん増幅するので、理性を使って制御するしかありません。
頭の中で「私はいま、執着している」と意識することです。
いつかは何もかも手放さなければならない事実を知らなければなりません。
そうすると執着する必要はないことに気づきます。
そして潔くきっぱりと捨てる心構えを持つ必要があります。
辛く厳しい修行のように感じますが、そうではありません。
どのようにしてさまざまな執着を手放していったらよいのでしょうか。
1.欲(五欲)を捨てる
モノに触れた瞬間に情報を得ることで妄想してしまうといいます。
たとえば木のテーブルがあるとします。それに触れることで「木でできたテーブル」だと認識します。
しかし実際は「ただの木」なのです。「ただの木」なのにもかかわらず、妄想によりテーブルだと思い込んでしまうということです。
こういったさまざまな妄想により「渇愛(心の渇き)」が生じてしまいます。
「五欲」とは五感で受ける欲のことです。
感覚器官に触れて情報を受けることで、「もっともっと欲しい」という執着になるのです。
モノに対する執着を捨てるためには、モノはただそこに存在しているだけと考えます。
モノが欲なのではなく、人の思考(概念)が欲です。
何にしても生きていくのに必要な量を知ることです。
食べ物は自分に必要な分だけを食べる。
睡眠も体が休まる程度でいい。惰眠を貪る必要はありません。
お金も必要以上を求めません。
つまり正しく依存をするということです。
瞑想を行うことで感情を起こさせることなく、ただ感じるように訓練します。
鳥のさえずりが聞こえても、「美しい」と思わず、ただ「聞こえた」と認識するだけです。
2.見解を捨てる
「見解」とは自分の意見のことです。
人は何かに触れるたびに自分の意見をつくり、それが正しいと思い込むようになります。
だんだんと「こうあるべきだ」と固執してしまうことになります。
「自分の意見=自分」と思ってしまうので、モノよりも執着を捨てることが難しくなります。
しかし「自分には意見はあるが、それがすべて正しいとは限らない」ことを知り、「執着に値するものは何もない」と考えます。
常に、「自分の見解は正しいのか」というチェックを自分にし続けることで、自由になるのです。
そして、この世の物ごとは、自分も含めて常に変化していること—つまり、無常だということを理解し、「執着するべき自分の意見はない」ということを理解しましょう。(P.123)
執着するべき自分の意見はないのですから、正しいと思える情報に脳内を更新していくことです。
3.儀式・儀礼を捨てる
「儀式・儀礼」というと大袈裟なように思いますが日常の習慣のことです。
たとえば会社での朝礼や行事などのことです。
繰り返し行うことで本来の目的から外れてしまい、儀式そのものが目的となってしまいます。
やることが目的になってしまうので、だんだんとそれらに縛られるようになります。
日本は「自由の国」だといっても、こういった意味がわからない儀式・儀礼・慣習などに縛られていると感じます。
「昔からやっているから」「社会の常識だから」と、惰性で続けているのではないでしょうか。
だから日本人は不自由そうに生きているのではないでしょうか。
こういったマンネリは脳が好むのです。その方が楽なので流されてしまいます。
そしてやがて習慣化してしまいます。
この執着を手放すには、「意味もないことを続ける」ことを捨てることです。
「今の習慣をなぜ続けているのか」と疑問を持ち、理性をもって選択することです。
本当に成長につながるものだけを習慣にします。
4.我論を捨てる
「我論」とは自分のことです。
自分への執着が一番厄介です。
私は本当に存在するのでしょうか。まずはそこから考えていきます。
人間の脳は、騙されやすくできています。蜃気楼を見たりするのは脳が錯覚してしまうからです。
こういった感覚は脳が受ける情報を勝手に構築しているから起こることです。
つまり、「自分」は存在しない。脳が引き起こしている錯覚です。
自分が存在しているという感覚は、科学的に証明されていません。
仏教は「自我を捨てなさい」とは言っていないからです。捨てるためには、自我が存在しなければなりません。ですから、「自我が錯覚であることを発見しなさい」と言います。言い換えれば、「解脱に達しなさい」という意味になります。自我は錯覚であると発見した時点で、自我に対する執着も消えるのです。(P.199)
瞑想を実践することで、自己をありのままに観察します。
集中することで無常の感覚を受け入れ、自分に対する未練を捨てることができます。これが「解脱」です。
まとめ
すべてのものがいつまでもあるというのは嘘です。モノは必ず壊れてしまいますし、大切な家族や友人であってもいつかは別れるときが訪れてしまいます。
いつまでもあると思うからこそ、失うことが怖い、喪失感を味わいたくないと思ってしまいます。
だから執着が生まれてしまいます。
しかし仏教の教えである「諸行無常」は、宇宙の法則であり永遠に変わらないものです。
人としての成長は、そうして日々、自分を客観的に振り返って気づき、気づいたことを修正するということの連続でしか訪れません。そうした実践を、日々、淡々と積み上げていくことでしか成長できないのです。(P.210)
すべてのものは無常である。
まずはこれを知らなければなりません。
瞑想することで執着していないか自分を振り返ります。
そしてありのままを受け入れる。
4段階目の自己への執着を捨てるのはかなり高いレベルです。
しかし前の3段階については、気づけば誰でもできると思います。
現代の日本人の幸福度が低いのも、この「自分が執着している」という事実を認識していないからなのではないでしょうか。
だからモノがこれだけ溢れていても、あれが欲しい、これも欲しいと「もっともっと」と思ってしまいます。
まずは執着していることを意識すること。そして理性でもって、潔くきっぱりと捨てること。
執着を捨てて生きることが、幸せに生きる秘訣なのではないでしょうか。
目を閉じて自分を振り返ることから始めるべきだと気づかせてくれた本でした。