以前、『夜と霧』を読んで、絶望的な状況の中にも、自分を見失わなかった経験にとても感銘を受けたので、ヴィクター・E・フランクルの本を読みたいと思っていました。
参考:意味を見出す『100分de名著 フランクル 夜と霧』諸富祥彦著
とてもいいタイトルの本だったので『それでも人生にイエスと言う』を読みました。
ぼくの中で価値観を変えてくれるような本だったので紹介します。
「生きる意味があるのか」と問うのは誤り
受験や就職、失恋、失敗ばかりしてどん底を味わうと、「人生はうまくいかないことばかりだ。なぜ自分は生きているのだろう」と思うことがあるかもしれません。
「もしかしたら意味はないんじゃないのか」と思うことがあるかもしれません。
人間は必ず死にます。どんな人であっても早かれ遅かれ必ずです。
すると、なおさら「人生に意味はないんじゃないか」と考えます。
「死ぬから意味がない」と考えるのであれば、全ての人は死にますので、全ての人の人生には意味がないことになってしまいます。
本当にそうなのでしょうか。そんなことはないと著者はいいます。
つまり、問いそのものが誤っているわけです。
人生に問うのではなく、人は人生から意味を問われている存在なのです。
待ってくれている誰かがいませんか。
待ってくれている何かがありませんか。
それは家族かもしれませんし、大切な仕事かもしれません。
待ってくれている「何か」があればそれに応じる必要が出てきます。
自分の人生に責任をとる
大切なことは何が問われているかです。
具体的な「ここ」「今」において自分に期待されていること。
その瞬間に意味を見出すのは自分次第です。具体的に何をなすべきなのかはわかりません。
人生を意味あるものにしていくためには、自分の持ち場、自分の活動範囲において最善を尽くすことです。
それが人生の問いに答えることです。
人間はいつかは死ぬからこそ、一回きりしかないこの瞬間に意味を見出すことができます。
それは、家族のために尽くすことかもしれませんし、仕事を懸命にやることかもしれません。
そうやって共同体にコミットしていくことで人生に価値を見出すことができます。
自分以外の誰がやるのか、いま以外のいつやるのか。
いま、この瞬間にできること、自分だけが果たせることが必ずあります。
生きるとは、問われていること、答えること
自分自身の人生に責任をもつことである。(P.57)
この瞬間に全力で答えること。人生が課す使命に対して答えること。
それが人生に責任をとることです。
まとめ
「何のために生きるのか」と人生に問うことそのものが間違いです。
人生に意味を問うのではなく、自分は人生に問われている存在である。
この考え方は、ぼくの中で大きな衝撃を受けました。
答えは自分自身で見つけなくてはなりません。
そのためには、「その瞬間」に全力で答えていくこと。
人生が一度きりであるように、この一瞬も一回きりでかけがえのないものです。
本書は、第二次世界大戦が終わった翌年、著者が行った講演が元になっています。
つまり、約70年前の言葉なわけです。
古さを感じさせることなく、むしろ新鮮な感じがしました。新しく風を運んでくれるような。
生きる意味というものを改めて考えさせてくれる本でした。