ただちに生きよ『生の短さについて』セネカ著

生の短さ

約2000年前のローマの哲学者であるセネカの『生の短さについて』を読みました。

一般的に「生は短い」と考えられていますが、実はそうではなく、活用すれば「生は十分に長い」ものだと説きます。

時間を浪費している人たちを咎めつつ、英知のために時間を使うことこそが真に生きることだと説くセネカの言葉には多いに納得するものがありました。印象に残った言葉を引用してみたいと思います。

ただちに生きよ『生の短さについて』セネカ著

多くの人は生を浪費している

当時から一般的に「生は短い」と考えられていました。しかしセネカに言わせれば、それは「生を浪費しているに過ぎないから」であり、「活用すれば生は十分に長いもの」だということです。

人間の生は、全体を立派に活用すれば、十分に長く、偉大なことを完遂できるよう潤沢に与えられている。

(略)

われわれの享ける生が短いのではなく、われわれ自身が生を短くするのであり、われわれは生に欠乏しているのではなく、生を蕩尽する、それが真相なのだ。(P.12)

生は使い方を知れば長いのですが、多くの人は酒に浸り、怠惰に惚け、無駄な労役に縛られます。あるいは他人の幸福に嫉妬し、自分の不運を嘆くだけに終始します。明確な目的も持たないまま、あてもなく彷徨っています。

決して「生きた」とはいわず、「存在していた」としかいいようのない状態です。

誰かのために、あるいは何かのために費やされるまさにその日が、あるいは最後の日となるかもしれない状況の中で、あたかも満ち満ちてあり余るほどあるかのごとく生を浪費するからである。人は皆、あたかも死すべきものであるかのようにすべてを恐れ、あたかも不死のものであるかのようにすべてを望む。(P.17-18)

あれほど多くの偉人たちが、富や公務や快楽を拒絶し、すべての障害を排除して、生きる術を知るという、ただこの一事のためにのみ全生涯をかけた。しかも、彼らの中には、自分はいまだにそれを知らないと告白して世を去った人も多い。生きる術は、いわんや、何かに忙殺される人間には知るべくもないものなのである。いいかね、これは本当のことだ、人間的な過誤を超越した偉人の特性は、自分の時間が寸刻たりとも掠め取られるのを許さないことなのであり、どれほど短かろうと、自由になる時間を自分のためにのみ使うからこそ、彼らの生は誰よりも長いのである。彼らの生の寸刻たりとも人間的陶冶に費やされず、実りに費やされぬ時間はなく、寸刻たりとも他人の支配に委ねられる時間はなかった。それも至当で、時を誰よりも惜しむ時の番人として、自分の時間と交換してもよいと思う価値のあるものは、彼らには何も見出せなかったのである。(P.26-27)

先延ばしにして、いまを疎かにして迎える結末というものは儚いものです。いつか暇になるときが来るかもしれないと期待して、老後の計画を立てることに果たして意味があるのでしょうか。

誰かが白髪であるからといって、あるいは顔に皺があるからといって、その人が長生きしたと考える理由はない。彼は長く生きたのではなく、長くいただけのことなのだ。実際、どうであろう、港から出た途端に嵐に遭い、あちこち翻弄された挙句、吹きすさぶ風が四方八方から代わる代わる吹きつけて、円を描くように同じところをぐるぐる弄ばれ続けた者が長い航海をしたなどと考えられようか。むろん、彼は長いあいだ航海したのではなく、長いあいだ翻弄されたにすぎないのである。(P.29)

世の中で「最も貴重な資源は何か?」と聞かれたら、ぼくは迷わず「時間」と答えます。なぜなら、ぼくらの人生は時間によって形づくられているわけで、それがなければ何もできないまま終わってしまいます。

時間という何よりも貴重なものを弄んでいるのだ。彼らがそうした考え違いをするのも、時間というものが無形のものであり、目に見えないものであり、そのために、最も安価なもの、いや、それどころかほとんど無価値なものとさえみなされているからにほかならない。(P.29-30)

英知のために時間を使うことが真に生きること

では、真に人間として生きるにはどうしたらよいのでしょうか。セネカは「英知(哲学)のために時間を使うことだけだ」といいます。

すべての人間の中で唯一、英知(哲学)のために時間を使う人だけが閑暇の人であり、(真に)生きている人なのである。(P.48)

哲学とは知を愛すること。

事実、そのような人が立派に見守るのは自分の生涯だけではない。彼はまた、あらゆる時代を自分の生涯に付け加えもする。彼が生を享ける以前に過ぎ去った過去の年は、すべて彼の生の付加物となる。(P.48)

過去の偉大な哲学者の思想に触れることで、自らも知の世界に導かれます。

われわれに閉ざされ、禁じられた世紀はなく、われわれはどの世紀にも入って行くことが許されており、精神の偉大さを支えに、人間的な脆弱さから来る狭隘な限界を脱却したいと思えば、(その知の世界を)逍遥する時間はたっぷりとある。ソークラテースとともに議論することも許され、カルネアデースと共に懐疑することも、エピクーロスと共に憩うことも、ストア派の人々と共に人間の本性を克服することも、キュニコス派の人々と共に人間の本性を解脱することも許される。自然がこうしてすべての時代の遺産を共有することをわれわれに許してくれているのであってみれば、今という短くして移ろう時の流れから離れて、過去という悠久にして永遠であり、より善き人々と共有する時へと全霊を傾けて身を委ねずして何としよう。(P.48-49)

人間の中で唯一、賢者のみが(人間を縛りつける)諸々の法則から解き放たれた存在なのである。あらゆる世紀が彼を神のごとく崇め祀るであろう。幾許かの時が過ぎたとしよう。賢者は回想によってその過去を把握する。時が今としよう。賢者はその今を活用する。時が未だ来らずとしよう。賢者はその未来を予期する。賢者はあらゆる時を一つに融合することによって、みずからの生を悠久のものとするのである。(P.52)

生を長くするも短くするも自分次第

「何かに忙殺される者」というのは、仕事で忙しいだけではなく、自分で自分を忙しい身に置いている人も含まれます。趣味や遊戯に時間を使ったり、どうでもいいことで人と議論したりすることなどがそうです。

こうしたことで忙しくしていることを「怠惰な多忙」とまでいっています。忙殺される人は考える時間もありません。ですから、そこから離れて考える時間をとるべきだと。

真に生きるとは、精神の高みに昇ることだとぼくは解釈しています。これこそが善く生きることだと。

人生が短いのではなく、浪費していれば当然のことながら、短く感じるものです。無駄なことに時間を使っているわけですから。

人生でやらなければならないことはそう多くはないんじゃないかと。現代人が忙しいのは、情報社会、物質至上主義だからこそ、1人の人間が一生のうちにできることが圧倒的に増えたことがあげられます。

しかし、時間は有限です。だからこそ本質を見つける必要があります。

日々の生活に忙しさを感じながら、時間管理に取り組んでいるのであれば一読の価値があります。

それは忙しいのではなく、自らが自らを忙しくしているだけだと気づけますよ。

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