『淡々と生きる』小林正観著

淡々と生きる

「淡々と生きる」

これがぼくの大きな指針になっています。物事をやるときに、自分の感情に惑わされることなく、やるべきことをやる。

日常の家事でも、仕事においても、必ずやらないといけないことは発生します。そこで、いちいち自分を奮い立たせてやっていると、だんだんと疲弊してしまいます。

だからこそ、一喜一憂せず、淡々とやる

「淡々と」とは、そういうものだと思っていました。自分の感情を介在させないイメージです。

しかし、小林正観先生の本『淡々と生きる』を読んで、「あっ、全然違うな。自分の考えは浅いな」と思わずにはいられませんでした。

淡々と生きる

小林正観先生の語る究極の生き方とも呼べる本です。本書の最も好きな部分を引用します。

新しい茶葉に六十度のお湯を注ぎ、一杯目のお茶を出します。このお茶は甘い。ぬるいお湯で入れたお茶は甘い。同じ茶葉で、甘いお茶が出たあとの二杯目を、十度高い七十度ぐらいのお湯を注ぐと、今度は渋みが出ます。甘さよりも渋みが出る。お饅頭などを食べたあとは、この渋みのところが好きだという人もいます。そしてさらに十度高い八十度ぐらいのお湯で三杯目を出すと、今度はお茶の苦い部分が出てくる。苦みです。さらに、九十度以上の熱いお湯で四杯目を出すと、もう甘みもなく、渋みもなく、苦みもない、色だけのお茶が出ます。これが出がらしです。

四杯目のお茶以降はもう出がらしで、かすかに色が付いているだけ。千利休は、この四杯目以降のお茶、甘みもなく、渋みもなく、苦みもない、かすかに色が付いているだけのお茶の味を、「淡味」と呼びました。「淡々と」の「淡」です。淡々とは、”水が静かに揺れ動く”という意味で、静かに安定している状態です。この淡味は、甘さも、渋さも、苦みをなくなって、ただのお湯、白湯に近い状態です。利休は、「この淡味のよさがわからない限り、お茶は永久に理解ができない」と言っています。

利休は、出がらしのお茶のおいしさがわかるようになれと言った。じつはこの出がらしのお茶のおいしさとは、「感謝」です。茶道は、お茶をいかにおいしく淹れるか、いかにおいしく味わうかの道ですが、それを甘い、渋いと言っている間は、まだ本質がわからない。四杯目以降の出がらしで、淡味のお茶をいかに味わえるか、それをどう喜びとすることができるか、つまり感謝することができるか。そこで、本当のおもしろさがわかる。(p.30-32)

この「淡味」、味がない味を味わうことができるか。そこに本当のお茶の楽しさ、おもしろさがあるということです。

また、正観先生は、日常生活で同じことが繰り返される中に、人生のおもしろさや、幸せがある。淡々と生きるからこそわかるといっています。

旅行へ行った。高級なモノを買った。贅沢をした。こういった非日常に価値を置いているうちは、人生の本当のおもしろさがわからないと。

ぼくが思ってた「淡々と」とは、感情を捨てる、押さえつける、何も感じずに物事をこなすというイメージでしたが、そうではないということです。

人生の本質は淡味にあり

こういった毎日の同じことの繰り返し、自分の好き嫌いにかかわらず、やらなければならないことにも、楽しさ、おもしろさ、喜び、幸せを感じることができるか。これが本当の「淡々と生きる」。そういうことだと感じました。

何気ない日常で、同じことの繰り返しで目新しさはないかもしれません。

しかし、それこそが「有り難し」というべきもので、本当はそこに感謝することができるか。

淡々と生きるということが自分が思っていたものと全然違うもので、別な視点から考えられるようになりました。

読み終えると、心が澄み渡るというか、深呼吸をしたくなるような本でした。

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